私はいのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。申命記30:19

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あるイスラム教徒の方とお話をしています。

とても温厚な方でクルアーンから見たイェシュア(イエス)についてお話ししてくれたり、また熱心にクリスチャンが信じる神についての疑問を投げかけてくれます。私は祈りつつ聖書箇所を交えながらひとつひとつ疑問に対し答えていきました。

多くの方のお祈りと助言に感謝いたします。一人の魂が起こされるのに、本当にとても多くの方の祈りがあるんだなあと改めて思い、私も知らないうちに多くの方に祈られていたんだなと本当に励まされます。

互いに強い確信をもっていると、やはり対話は難しいと思うところもありました。こういったやりとりは意味をなさないのではないか、と。それでもこのように福音を伝えることが出来て本当に感謝で、福音を伝えるためにどのように伝えたらいいのか、多くの困難がありますが一人でも多くの魂が起こされるよう、重荷をもって祈っていきたいと思います。

 

わたしは福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマ1:16~17

アーメン。信者の祈りは必ず天の父に届きます。そして引き寄せてくださるかどうかは、神の御旨次第です。どうか私の人生のすべてが主イエスを証するものとなるように。

そのイスラム教徒の方は、私がイスラム教に改宗することをずっと祈っていて、クルアーンを送ってきてくれます。本当に心から私の幸せを祈ってくれていました。私がクリスチャンであるということはその方も知っていましたし、私は何によってもこの確信を捨てない、揺るがされないとお伝えしました。

それでもとても熱心で、イスラム教としての私の救いを祈ってくれていました。その気持ちはとてもわかりますし、私もその方の救いを祈っていました。

 

しかしイスラム教とキリスト教

両者の神概念には共通したものがありますが、そうでない所もあります。そしてなにより「決定的な違い」があります。それは救いの方法です。

 

キリスト教の救いの条件は1コリント15:3~4にあるように、

エスキリストが自分の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目に復活されたということです。

これが福音であり、これを信じイエスキリストを救い主として受け入れることが、赦しを受け取る唯一の方法です。私たちは行いによって救われるのではありません。行いによって救われると信じることは十字架が不完全であるということです。御子の十字架は、全人類を救うための完全な贖いであり、私たちの行いは先立つものではなく恵みによる応答です。

 

あなた方は恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたのではなく、神からの賜物です(エペソ2:8~9)

アーメン、仰せの通りです。そうして1コリント15:3~4を信じる者は、御国を受け継ぐ保障として御霊が与えられ、霊的に生まれ変わります。(エペソ1:14)

聖書は、「人は恵みにより、信仰によって救われる」と教えていますが、イスラム教は業による救いを教えており、恵みによって救われるというキリスト教とは対照的です。

原罪や旧約聖書の内容をとてもよく学ばれていた方なので、旧約聖書からイエスキリストが救い主であると確信できる箇所を出来るだけ多く提示しました。旧約で多くのメシア預言がされているのですが、ユダヤ教イスラム教も箇所を飛ばして読んでいることがあるようです。

 

お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。創世記3:15

創世記3:15は原福音と言われているもので、黙示録を預言しています。
聖書を開いて文脈をみていただいたらわかるように、ここで言われている「お前」とは一つ前の箇所14節の蛇のことです。 
お前の子孫とは反キリストのことで、女の子孫こそイエスキリストのことです。 ユダヤ人たちの系図は男性中心ですが、ここでは女の子孫とあります。これは、処女降誕を預言した言葉であり、女の子孫とは原文(ヘブル語)で単数形です。つまり神のひとりごであることを示しています。

 

それゆえ、私の主が自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ。イザヤ7:14

*インマヌエル
神は私たちとともにおられる、神性と人性が共にある存在という意味。 神と人とが一つになった存在で、その存在の神からのしるしは「処女から産まれる男の子」であるということです。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。イザヤ9:5

この箇所を読むと、そのひとりごが私たちの神であることがわかります。 このひとりごは、人間として生まれつつも力ある神、永遠の父であるという霊性をもっています。

エスキリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。マタイ1:18「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」マタイ1:23

その存在と生涯を通して「神は私たちとともにおられる」事実を示してくださいました。

 

*救い主がベツレヘムで産まれるという預言

エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。ミカ5:1

救い主の誕生の地は、ベツレヘムであると預言されています。
また、この箇所は救い主が人間としてお生まれになることを教えてくれています。実際にイエスベツレヘムで人間としてお生まれになりました。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。ルカ2:6~7

 

ダビデの家系から生まれる
あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国をゆるぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。2サムエル7:12~13

預言者ヨナタンを通して主の言葉が語られました。ダビデではなく、ダビデから出る跡継ぎの子が神殿を再建するとされました。メシアはダビデの子孫から出るとされ、イエスの母マリアは、まさしくダビデの家系に属していました。

 

*メシア誕生の時期

これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についてのみ言葉が出されてから油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって、危機のうちに広場と堀は再建される。ダニエル9:25

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油注がれた君、つまり勝利者である神は紀元約30年頃にはメシアとして地上にいます。
メシアは第二神殿が破壊される時点より前に来られることと、紀元32年に判決を受けて非業の死を遂げることが預言されており、実際にイエスは紀元32年に十字架に架けられました。

 

クルアーンから見たイエス

「イスラム指導者からクリスチャンへ」 Mario Joseph IMAM EMBRACES CHRISTIANITY - YouTube

動画は、イスラム指導者の方がクリスチャンとなったという証であり、クルアーンから見たイエスについて話をしています。クルアーンには、ムハンマドの名前は4箇所しか書かれていないようですが、イエスの名前は25箇所に書かれているそうです。また、クルアーンには女性の名前が書かれていません。でもたった一人、イエスの母であるマリアの名前だけが書かれています。そして、クルアーンではイエスのことについて三つのことが書かれています。

カリマトラ=アラビア語で「神の言葉」

ローハラー=アラビア語で「神の霊」

イーサルマシ=アラビア語で「イエスキリスト」

*キリストとは「油を注がれた者」という意味。ヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳で、「救世主」を指しています。クルアーンではイエスの存在を認めます。そしてイエスのことをイエスキリストと言っています。またユダヤ教の教典の「タルムード」でさえも、イエスの歴史性は認めています。

クルアーンでイエスは「神の霊」、「イエスキリスト」と書かれています。しかし、それでは何故イエスキリストが神だとわかるのでしょうか。それは聖書に神は父・子・聖霊の性質を持つと記されているからです。

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わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の御霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。ヨハネ14:16~17

希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:5

コーランにはイエスは土から生ける鳥を造ったと書かれています。イエスの息を吹き込むと生ける鳥となり、つまりイエスは命を与えられることが出来る方だとクルアーンに書かれています。また、クルアーンではイエスは盲人を癒し、らい病を癒し、人を生き返らせ、天に昇り今も生きておられ、またこの地に再臨するとされています。

これは新約聖書でも書かれているように、すべて旧約聖書においてのメシア預言の成就のことです。そしてこれらを成されるのは、イエスキリストなのです。

 

*盲人を癒す

見ることののできない目を開き、捕らわれ人をその枷から闇にする人をその牢獄から救い出すために。イザヤ42:7

ひとつ前の箇所6節を見ると、これらを成し遂げるには主なる神であることがわかります。イエスは新約の時代で多くの盲人を癒しました。

そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたが信じているようになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。マタイ9:29~30

 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきて癒され、なんでもはっきり見えるようになった。マルコ8:25

 そこで人々が、「ではお前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら見えるようになったのです」ヨハネ9:10~11

 

ツァラートに冒された者を清める

レビ13:49~14:10

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまづいて願い、「御心ならば私を清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。マルコ1:40~41

 

*人を生き返らせる

人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこでイエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その例が戻って、すぐに起き上がった。ルカ8:52~55

エリヤとエリシャは、死んだ子の上に身を伏せて蘇生を祈りましたが(1列王記17:19以下、2列王記4:32以下)、イエスの場合は、手を取って語りかけるだけで少女は生き返りました。これは、イエス預言者以上のお方、約束のメシアであることを示しています。(cry聖書解説コレクション)

 

*今も生きておられる

主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。 エレミヤ10:10

わたしは知る、わたしをあがなうものは生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。ヨブ19:25

生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自分をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。ガラテヤ2:20

 

*この地に再臨する

お前の民と聖なる都に対して七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ最も聖なる者に油が注がれる。ダニエル9:24
お前の民とはユダヤ人のことで、聖なる都とはエルサレムのことです。

定められている七十週とは、7年間の患難時代という意味で、それが過ぎると、つまり患難時代が終わるととこしえの正義が来ます。患難時代とは、反キリストとイスラエルの契約締結時から始める7年間の苦しみのことで、聖書では別の名前で書かれています。

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とこしえの正義とはイエスキリストの地上再臨から千年王国の統治、永遠の秩序のことです。


夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。
諸国、所属、諸言語の民はみな、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。ダニエル7:13~14

ここでは、「人の子」のような者が天の雲に乗って降りてきたと書かれています。何故わざわざそのように書かれているんでしょうか?神さまは多くのヒントをくださっています。


さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」ルカ24:44

 聖書を学んでいく内に、「イエスを受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)という御言葉に出会った。人間を神(アラー)の奴隷だとするコーランと違って、人と神が親子のように愛し愛される関係を築けると説くキリスト教に好感を持ち、自分も神の子どもになりたいと思って福音を受け入れることを決意した。しかし、マリオの父がそのことを知った時、彼の家族はコーランの教えに従って激しく彼を拷問した。コーランにはイスラム教を拒絶する者は殺すようにと書かれているからである。20日以上もの間、水も食料も与えられなかった彼は、骨だけになり頭も働かず死人のようになった。
そして、ついにある日、父がナイフを持って「イスラムの神」か、「イエス」のどちらかを選ぶよう、瀕死の彼に迫ってきた。イエスを選ぶのであれば、父は彼を殺すと言った。これで最後だと思った時、マリオはイエスが死んで蘇ったことを思い出し、自分もイエスを信じて死ねば蘇ることができると思い、イエスを選ぶ決心をした。その時、月のような光が彼の額に射し、彼に抑えがたい程の力が湧いてきたのである。(コーランから神の子キリストを見出す 元イスラム教指導者マリオ・ジョセフの証)


娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。ゼカリヤ9:9

シオンの娘に告げよ。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」マタイ21:5

エスは神が用意された過越の小羊としてエルサレムに入城されました。

主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。詩118:26

 

そしてイザヤ53章は十字架による全人類の罪の贖いを預言している重要な箇所です。

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。イザヤ53:4

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしいたちはいやされた。イザヤ53:5

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。イザヤ53:10

彼は自らのの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、新で罪びとのひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために取り成したのは、この人であった。イザヤ53:11~12

アーメン、この方こそ私たちの救い主です。イザヤ53章はイスラエルの民全体のことではなく、ひとりのお方を指しています。そしてそのお方とはメシアのことです。

エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ14:6

詩篇22篇、イザヤ53章、ゼカリヤ12章などによれば、イスラエルの民は、イエスがメシアだと認識できないまま、この方を突き刺し、十字架の死へと追いやります。しかし神はこの状況を用いて、私たちの罪と咎をイエスに負わせ、イエスは私たちの罪を贖う犠牲のいけにえとして十字架に架けられました。

ユダヤ人はこの箇所を削除しており、読んでいないようです。これはユダヤ人の目からイエスを隠すために、ラビ達が決めたことだそうです。だからこそ今、イザヤ53章を手に取ってぜひご自身で確かめていただきたいと思います。

わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。申命記4:2

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旧約での預言が新約において成就していますが、新約を正典とするのはキリスト教徒のみなので、ユダヤ人やイスラム教徒はその事実を知りません。なので出来るだけ旧約からイエスキリストが主だと確信できる箇所を照らし合わせることで、彼らが言う「聖書的根拠」が与えられると思います。

 

クルアーンは旧約においてのメシア預言をイエスキリストにおいて成されたと認めています。クルアーン10章「ユーヌス」94節には、「疑念のうちにあるなら、クルアーン以前の啓典を読む者に問え」とあるようで、クルアーン以前の啓典とは旧約聖書新約聖書のことであり、それを読む者とはユダヤ教徒やクリスチャンのことです。

ただ、心の中でキリストを主をあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じるだろう。ペテロ3:15~16
私たちは、神がイスラム教徒を愛しておられることを知っています。そして、私たちクリスチャンはいつ何時も福音を伝えるチャンスが与えられています。生きる生活が一つ一つの種まきであり、肉と呼んだ自分の力に頼って歩むか、聖霊の力によって歩むかという選択肢があります。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」2テモテ4:2
悪い折と思える時もありましたが、そうした時だからこそ求められる行動があると思います。神さまは私たちが想像をはるかに超えて益としてくださいます。情熱をもって、ただ主に信頼を寄せて、一人一人に幸せな道が備えられるよう祈りながら。

 

イスラム圏でイスラム教を棄教するのは死刑にあたります。彼らに福音を伝えるのは困難が伴うかもしれません。しかしその困難の中に「機」が与えられていると思います。それを覚え、私たちクリスチャンは希望をもって彼らのために祈っていく必要があります。どうかその口が、主を証するものでありますように。

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神はイエスキリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。使徒10:36

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

アーメン。宣言します、イエスキリストこそ私たちの主です。

まだ救いの確信の得ていない方に、強い確信が与えられますように。